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鬼畜文書

シリアルキラーの時代

 それにしても良い時代になったものだ。
 政治や文化や経済をはじめ、ガキどもの根性から女どものあそこに至るまで、あらゆるものの腐敗が進む現在の日本では、今後ますますこの映画祭で上映される映画に出てくるような猟奇殺人犯や大量殺人鬼が出現する可能性が高まってくるだろう。それは消費税の5%導入と同様、避けられないものとして諦めるしかない。
 そして、けしからんことに「隣の不幸は鴨の味」ということわざに代表されるように、人間というものは自分に被害が及ばない、自分と関係のない他人の不幸は無責任に面白かったりするから罪深いものだ。いくらマスコミ側が「これは正義の報道だ」と主張しようが、見る側の気持ち次第で、事件報道などいくらでも娯楽番組になりうるのである。
 この国で犯罪者の異常心理を分析した書籍がベストセラーになるのも、買った連中の全てが「被害者の遺族の悲しみと無念を共有し、どうしたらそうした犯罪の起きない明るい社会が目指せるのか」なとという理想に燃えて読んでいるとはとても思えない。
 それらを読みたがる理由は好奇心、怖いもの見たさがほとんどで、中には俺のように「他人の不幸を見て、自分の置かれているみじめな境遇から目を背け、ささやかな幸福を確認する」という人間のクズもいることだろう。
 〈鬼畜にとって「自分に被害の及ばない殺人事件」は、単なる娯楽でしかないのだ〉
 そう言い放つだけではミもフタもないから、ここはひとつ殺人映画を擁護するために陳腐な大義名分をくれてやろう。この映画祭で上映される殺人映画は、来たるべき「連続殺人狂時代」対策のための「教育映画」でもあるというわけだ。
 これは常々感じていたことなのだが、日本の学校教育の重大な欠陥の一つは、「現実社会の暗黒面をしっかり教えていない」カマトト教育を していることだ。これからこの国に育つガキ共は「人間のずるさ醜さ汚さ」をあらかじめ学んでおかなければ、バカな善人に成り下がって、社会に出てから良い カモにされるばかりだ。この世がいかに嘘と欺瞞に満ち満ちた腐り果てた場所なのかをしっかり教育もせずに社会に放り出すのは犯罪にも等しい愚行である(別 に学校で教育されなくても「何かがおかしい」と自分で感じ取って、自力でズル賢くなるのが一番望ましいのだが、それは生まれつき大きな心の闇でもかかえた 暗くヒネたガキでもないと到底無理だろう)。
 鬼畜の俺が特に強調しておきたいのは、「人間は正しいことをするのが正しい」などというクソたわけた妄想を、徹底して「根拠のない思い込みである」と認 識することだ。昨年のオウム事件や、新興宗教の霊感商法で巨額のお布施をカモられるバカな善人どもを見てもわかる通り、「人間は正しいことをするのが正し い」などと考えている善人に限って、善意をタテに取った詐欺に引っ掛かるものである。俺のように、ハナから自分の行動にいかなる正当性も求めない立場のゲ ス鬼畜でいれば、「ウチの教えがいちばん正しいのです!」などという脳たりん信者どもの折伏にも「あ~そーなの、良かったね~。でも俺は別に正しいコトな んかしたいとはこれっぽっちも思わねえんだよ馬鹿」と腐った答えを返せるのである。「人間は孤独であるよりも悪と共にあった方が良い」というコトバが思い出される一例だ。
 そういうわけで「正しいことをするのが正しい」のではない。「人間は己がやりたいことをするのが正しい」の であり、それが世紀末の現代を強く生き抜くための望ましい基本姿勢なのだ。もちろん、俺はここで主張したことが社会通念上、完全に間違っていることぐらい は判断がつく。しかし、思想的に正しいことが何の役にも立たなかったりするのが現実というものであり、「間違い」が堂々とまかり通ったりもするところに、 この世のひとすじならぬ深遠さと面白さがあるものだ。
 そして現実はこの先に何を用意しているか分かったものではない。昨日までの仲の良い友達が、明日には発狂してナイフを振りかざして襲ってこないとも限ら ないのだ。少し前にTV局のキャスターの親戚が神の声を聞いて(電波)錯乱して暴れた事件があったろう。親しい兄弟や家族であっても、いつ何時殺人鬼になって大量殺人をするとも限らないのだ。
 そのときの為に備えておけ。生き抜くための最大限の努力をしよう。誰が殺人鬼になって襲ってきても決して慌てないように、自分以外の他人の全てを常日頃 から「犯行前の殺人鬼」とみなしてつき合うのもいいだろう。被害妄想にならない程度に油断なく抜け目なく生活するのだ。そういう意識のもとで送る日常生活 はスリリングで張りのあるものになるに違いない。のんべんだらりと平和ボケしていては、身近に殺人鬼が現われたときに哀れな犠牲者になり下がってしまう。 たとえ親兄弟や恋人を犠牲にしてでも、生き延びて一生犯罪報道を楽しむ立場でいたいものだ。それが犠牲者への鬼畜的供養である。
 そんなわけで、この映画祭の映画は、どれも殺人鬼の生態や特徴、手口などを知るうえで貴重な資料でありシリアルキラーたちに殺されないための「教育映画」なのだ。これにさきごろ出版された『世界殺人鬼百選』(ガース柳下/ぶんか社刊)のような、この種の本にありがちなド退屈なモラルや倫理観をそっくり吹き飛ばした良質の殺人鬼研究読本をテキストにすれば、来たるべきシリアルキラーの時代も余裕で楽しめるだろう。
 われわれは殺されないために殺しを学ぶ必要があるのだ。